カテゴリ:独り言( 7 )
Yahooニュースの書き込みを見て思うこと
今日は終戦記念日です。

昨日たまたま、
本棚を整理してたら水木しげるの「総員玉砕せよ!」が出てきたので読んだ。
漫画であるが、自身の戦争体験を描き、悲惨さに真実味がある。

古い本だが文庫本で出てますので本屋言ったついでに見てみてもいいのではと思います。


さてさて、このブログでは「独り言」というカテゴリで、たまに真面目なことを書いてます。
んでこういう事を書くと友人にどう思われてるかすっごい気になってしまうんですよね。
メンタル弱いので。

思ってることとか、考えてることを匿名じゃなく書くってすごい勇気がいることだなって思うんです。
アナキズムな考えの人も多いし保守的な考えの人もいますしね。


匿名で好き勝手書ける2ちゃんねるとかYahooニュースとか人とかは多分気楽なもんでしょう。

しかし、メディアの力っていうのがその「匿名で書ける」
インターネットの割合がとても大きくなってるんですよね。
yahooのニュースにも出るJ-CASTニュース なんかには2ちゃんねるの書き込みを引用して
ニュースを構成している。まあインターネットニュースだからかもしれませんが。


そして今回の竹島の件でのニュースの下での書き込みの過激さはなかなかです。
Yahooニュースであれだったら本家2ちゃんねるとかすごいんだろうなーっと容易に想像できる。
ヨシダは2ちゃんねるの見方が(特に検索)いまいちわからないので憶測ですが。

去年くらいにテレビでやっていたNHKスペシャル
『日本はなぜ戦争へと向かったのか 第三回 “熱狂”はこうして作られた』で

”メディアと国民もまた、戦争の加害者”という視点の放送をしていた。

当時の新聞とラジオが率先して翼賛的になり開戦を煽っていった要因を番組は二つあげている。
一つはもちろん発行部数の増大が見込めたことだが(戦争を煽ると発行部数が伸びる)、
もうひとつはメディアがこういった「翼賛的、好戦的報道」を国益と捉えていたためだ。
(その辺りは、最近の映画、聯合艦隊司令長官 山本五十六にもかなりの描写がある。)


当時、日本は不況が続く状態。こんな時に、状況を一気に打開する方法として、
メディアは戦争を不可欠と判断。
だから戦争を煽ることで、メディアは社会に貢献すると考えた、というのだ。
つまり、好戦的な姿勢は単に一企業の私的な利益にだけに基づくものではなかったのである。

小野田寛郎さんは戸井十月さんと取材の中で、
「時代が不況でしたし特に百姓や工業の人はなんとか国拡げてもらわなきゃ」という声があった
と当時の事を証言している。


国民、メディア全体が、判断能力と批判能力を失ってしまった。
その結果、日本はあの悲惨な戦争へと突き進んでいったというわけだ。


この番組の中で、最後に「日本が戦争に再び突入する可能性があるか?」という
アンケート調査を公表しているが、「ある」と答えたのは10%台に過ぎなかった。

ヨシダはまったくそうは思わない。
なぜなら、メディアにおけるインターネットのパワーがかなり強くなり、
世の中が無視できるほどのレベルでは無くなっている。

新聞などにおけるメディアは戦前における猛省から、対外交において強気になったり
好戦的になることはまず無い(外国に弱いという弊害を生んでいるが)
それに対するフラストレーションがインターネットメディアに流れてる側面もあるのだろう。

日本のインターネットの中の一般の人(書き込みをする人ね)は
お構いなしで過激な言葉を「匿名」で書いている。

時にそれは正義の為であったり、反権力のうえでとても心強い力をもっているが、
反面使い方を誤ると、とてつもない間違った方向に進むことがある。


Yahooニュースでも竹島問題で「開戦しろ」だとか平気で書き込む。
それに対して「そう思う」が沢山付いている。

21世紀のお祭り的熱狂は、メディアを介したという点では第二次世界大戦へと向かう日本人の熱狂と
何ら変わるところがないと思う。

情報の多様化が価値観の細分化を生むと言われているが、
ネトウヨやネトサヨとかあまり他の用語はよく知らないが、、
カテゴライズして、特定の思想や人や団体を叩く、ある意味、戦時中の非国民扱いである。
こういった価値の一元化、熱狂の一元化も進んでいるという事態が起こっているのも事実だろう。


先の戦争は新聞社が起こしたようなものという声もあるが、
これから次の時代の為、インターネットメディアが戦争を起こすことが無いように切に願う。



では!
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by fbmitu | 2012-08-15 17:35 | 独り言
韓国の竹島メッセージに思う。
オリンピックが終わってしまったー。

なんだかんだと毎日寝不足のように見てしまい沢山の感動と勇気をもらった。
ほんとに。

一生懸命何かに取り組んでいる人っていうのは美しい。
くじけそうになるときや、頑張らなくてはならないときに自分に言い訳せずに
一生懸命取り組みたいっと本気で思った。オリンピックを見て。


日本の選手の活躍が本当に印象に残ったいいオリンピックだった。

しかしながら個人的に韓国の選手のサッカーの件は、非常に残念。
日本人だからとかそういうのとかでは無くて
(こういう事をブログで書くと誤解を生んでしまうことがありそうだがヨシダはいたって
人当たりのいい柔らかい人と自負している。)


竹島(韓国名・独島)の韓国領有を主張するメッセージを掲げた朴鍾佑選手は
銅メダルが剥奪される可能性が高いようだ。
朴鍾佑選手は正確に何歳か知らないが23歳以下とまだ若い。
これは韓国の民族主義・ナショナリズムの悲劇としか言いようがない。

韓国のナショナリズムの根底にある、独特の「ウリ」意識は、
元々、「自分たち」というまとまりを大切にする民族性が韓国ナショナリズムを引き立たせいる。

民族の悲願であった独立が、アメリカの国策によって出来たという歴史上、
あまり誇らしくない事実が韓国にはある。韓国の本当の敵国は北朝鮮のはずであるが
同じ民族がいがみ合っている状況では、民族としてのアイデンティティーは確立できない。
そうして、民族の独立を妨げ、搾取と蛮行を繰り広げ、
あげくに民族を分断させた張本人「日本」をもう一つの憎むべき相手と位置づけ、
敵に置くことで、国民を結束させナショナリズムの高揚を図ったという歴史がある。

そして、今回、国家のアイデンティティーを保つことの為の反日教育がこのような形であらわれたのだ。


今回の大会の前、韓国の李明博大統領が島根県の竹島に上陸した。
あまりにも空気の読めないこの行動はどう考えても自国の足元の問題。

来年2月の任期切れを前に、大統領周辺では実兄や側近の逮捕が相次いだ。
支持率は下降の一歩をたどり、政権はすでに力を失っている。

内政が手づまりになった際、政治家が国民の目を外にそらそうとすることは歴史的によくある。
ナショナリズムをかきたてる領土問題は、いい材料になったのだろう。

そのニュースに触発され、用意したボードを選手が掲げた。
当然IOCからメダルが保留され、選手は表彰式に出席できずに帰国した。


さらに問題なのは韓国の次期大統領候補の
キム・ドゥガン候補が12日ツイッターで「われわれの土地を自分たちのものだと言って何が悪い」と発言。
「IOCこそ政治的な決定を取り消さなければならない」と批判したそうだ。


そして韓国全体の世論としては選手に対して英雄的な扱いになっていると思われること、
このまま進めばオリンピック(世界)として問題のあることが韓国では「正しい行動」
になることに最大の問題がある。

韓国ではソルトレイクの際、スピードスケートのショートトラックで、
アメリカの選手が韓国人選手の進路を妨害してしまい、取れると思われていたメダルを逃してしまったことがる。
その際、星条旗やブッシュ像を燃やすなどのパフォーマンスも行われ、
そして、ワールドカップのアメリカ対韓国の試合が行われたとき、
韓国人選手がゴールを決めたとき、彼は他の選手とともに、スピードスケートの物まねを見せ付けた
スタジアムは凄まじい興奮に包まれ、街頭で応援していた市民も感性と拍手を贈るという事があった。


アメリカは同時多発テロの直後、アメリカはテロとの戦いを掲げ、国民の怒りや悲しみは
国民の一致団結という方向へと変わっていった。
ニュースの映像で見たがこの当時は、各戸に星条旗が掲げられるといった現象が起きた。
その後、世論はアフガニスタン攻撃へと傾き、正義の名の下に、アフガニスタンへの空爆が断行されたのは記憶に新しい。

ナショナリズムは、過激さを増すと、時にとんでもない方向へ進むこともあるのだ。


もう日韓、そして世界は新しい時代を迎えている。
スポーツ世界におけるナショナリズムは、純粋に自国を応援するという、
政治色の薄いものに変わっていっている。


そのような時代にこれからを担う若い世代のスポーツ選手が自ら自国のくだらない政治的な行動に
触発され、あのような行為をしたことが本当に残念なのだ。

政治の問題は政治で解決して欲しい。




では!
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by fbmitu | 2012-08-13 12:19 | 独り言
ムヒカ大統領のスピーチ。
今、話題になっているムヒカ大統領のスピーチ。

リオ会議でのこのスピーチを見て、一人の人間、そして社会に生きる人間として
考えることが沢山ありました。

自分はものを販売することで糧を得ており、そして資本主義のサイクルの中で生きる人間です。
そういう中に生きる人間だからこそ、深く考えれる事があると思ってます。

自分には、まだここで書けるほどの答えを持ち合わせていませんが、
環境問題、電力問題の根本はこのスピーチにある。
もっと考え方はシンプルでもいいのかもしれません。



下記サイトより引用させていただきました。

http://hana.bi/2012/07/mujica-speech-nihongo/?fb_ref=facebook&fb_source=timeline



引用
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ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ: (訳:打村明)

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会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。

ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。

しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?

質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。

息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?

なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?

マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。

私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?

このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?

このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。

現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。

ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。

このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売っては行けない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。

石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。

昔の賢明な方々、エピクレオ、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。

国の代表者としてリオ会議の決議や会合をそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。

根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。

私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、1300万頭の世界でもっとも美味しい牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。

私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。

幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。

ありがとうございました。

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引用終わり



では!
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by fbmitu | 2012-07-26 11:45 | 独り言
非常に残念なニュース
いじめ問題でも書きたいことはあるがそれとは別にこのニュースが非常に残念


世界遺産「那智の滝」の滝で佐藤裕介氏他2名のクライマーが
ロッククライミングをして軽犯罪法違反(禁止区域への立ち入り)容疑で逮捕された。


佐藤裕介さんのインタビューなどを読んだりして、
非常に共感していたので今回の件は非常に残念です。


少し時間が立ちましたが、皆様の反応は様々。
ただ叩けばいいってわけじゃないのは百も承知です。


あるプロクライマーが
「うーーーーん、複雑だなーーーー。 ピラニアのオーナーが言うようにクライマーとしては「いいね!」だが、、、、 うーーーーーん。
ただ、日本人の自然崇拝もなんとかならんかねー? 岩とか木には神は宿らんし!!! 神は形として存在しない! 」

っと公然とつぶやいてますが、これまた個人的に残念な反応。

それだったらエベレストやエアーズロックも聖なる場所だとか
けっこう登ってるし全員軽犯罪がどーとか、そんな問題のすり替えをしてる人間も多々いるが
みんなこうやってるからどーとかいうのと今回の問題を照らし合わせるのは論外。


たくさんの考えがあってクライマーとしてとか、自己主張があっていいと思うのですが
岩や山、自然を神として敬う沢山の人たちへの社会人として最低限の敬意が欠けてはならない。


クライマーにとって一つの岩でもその場所を何年も心のよりどころにしている人や
そこを生涯護って祈りをささげている方々が日本には沢山いる。


山や自然はクライミングやアウトドアを楽しむだけのものではなく、
様々な立場の方々の沢山の想いが存在します。
そういう意識を持って日本の美しい場所を共有出来る社会、そして文化であってほしい。




では!
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by fbmitu | 2012-07-18 18:52 | 独り言
フィルターを持つ
パソコンに詳しい(そうでも無いのだが)ので購入の際によく相談されます。

大体まとめるとこんな感じ

・店の人にこのスペックでこの価格は安いと云われたが本当か?
・何を基準に選んだらいいかわからないから教えて
・友達が使ってたパソコンが何とかで何が入ってて5万円で売ってくれるそうだけど
それって安い?って質問。

まぁかなり大雑把ですがこんな感じです。

毎回思うのですが「んでパソコン買って何したいのか?」ってことです。


結局のところ「お得に買い物したい」っていうだけで何がしたいかわからない。
例えばインターネットだけなら快適に動くだけのパソコンでいいし
動画を見たいなら液晶にお金をかけたらいい。
仕事で使うならエクセルやワードは入っていた方がいいしね。


そういう目的意識って大事だと思うんです。


パソコンに限ったことじゃなく、テレビでも掃除機でも
今はインターネットで検索すれば沢山の情報が入ってきます。

そんな中で自分が一つ「選ぶ」っていうことは、
自分のフィルターを通すってことが大切。


それは仕事でも一緒で、数え切れない沢山の企業、職種がある中で
自分が何がしたいか?そこを明確にすることが大事。


何に面白みを感じるか?やりがいを感じるか?
せっかくの仕事、時計を見ながらするより夢中になりたいですよね!





では!
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by fbmitu | 2012-06-19 13:50 | 独り言
素朴愚拙
今日はわかちゃんの撮影。

Lakotaでのわかちゃんやトミーの撮影はショウジカメラマンです。
いつも「いい写真」を撮って欲しいとお願いしている。

ここで言ういい写真というのはデジカメ講座などで習うような写真ではない。
自分達が「いい表情」「いい写真」っと本気で言える写真だ。


ヨシダは仕事でのアイテムのセレクトや掲載、普段の聞く音楽や、人との価値観の共有に
「美しさ」というものを一つの基準にしている。

それは岡本太郎さんからの受け入りだが、それが自分の価値観に大きく影響しているから


「自分の中に毒を持て」ではこうあります。

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ぼくは『今日の芸術』という著書の中で、芸術の三原則として、次の三つの条件をあげた。
芸術はきれいであってはいけない。うまくあってはいけない。心地よくあってはいけない。

それが根本原則だ、と。

はじめて聞いた人は、なんだ、まるで反対ではないか、と呆れるかもしれない。しかし、まことに正しいのだ。すでに書いたことだから、ここでは繰り返さないが。

ただ一言、「美しい」と「きれい」というのはまったく違うものであることだけをお話ししておきたい。

とにかく、美しいというのは、おていさいのいい、気持ちのいい、俗にいうシャレてるとかカッコヨイ、そういうものだと思っている人が多い。
ちょうど「衣食足りて礼節を知る」という場合の礼節のように。

しかし美しいというのはもっと無条件で、絶対的なものである。

見て楽しいとか、体裁がいいというようなことはむしろ全然無視して、ひたすら生命がひらき高揚したときに、美しいという感動がおこるのだ。
それはだから場合によっては、一見ほとんど醜い相を呈することさえある。無意味だったり、恐ろしい、またゾッとするようなセンセーションであったりする。
しかしそれでも美しいのである。
「醜悪美」という言葉も立派に存在する。僕はかつて縄文土器や殷周の銅器などについて、「いやったらしい美しさ」ということをさかんに言ったが、その意味である。

ところが、「醜いきれいさ」なんてものはない。
美の絶対感に対して、「きれい」はあくまで相対的な価値である。つまり型にはまり、時代の基準に合っていなければならない。
「あそこの奥さんはきれいな人だ」というのは、その時代の「美人型」にはまっているからだ。
有名な女優さんに目つき、口もと、鼻のかっこうが似ていると自動的に美人といわれる。

その「型」は時代時代によって変わるのだ。太ったのが美人である時代もあれば、やせていなければ美人といわれない時代もある。もちろん男性においてもだ。

たとえば天平時代の代表的美人の絵「鳥毛立女屏風」とか「吉祥天女像」などのような女性が現代にあらわれたら、
感じはいい人なのに、あんなお多福で、まことにお気の毒と同情されてしまうだろう。

歌麿や豊国の浮世絵に出てくる美人だって、今日あんな顔で出てきたら、相当グロテスクだ。
逆にバルドーやヘップバーンなどが江戸時代や明治頃に生まれていたら、とうていこれほどもてはやされなかったに違いない。

だから、「美人」というより、本当は「きれい人」というべきなのだ。
ぼくにいわせれば、本当の美人というのはその人の人間像全体がそのままの姿において充実し、確乎とした生命感をあらわしている姿だと思う。

皺クチャのお婆さんだって、美しくありうる。
鼻がペチャンコだろうが、ヤブニラミだろうが、その人の精神力、生活への姿勢が、造作などの悪条件も克服し、逆にそれを美に高める。

美人というのは本質的には女性の数だけあるとぼくは思っている。

まして、芸術の場合、「きれい」と「美」とは厳格に区別しなければならない。「あら、きれいねえ」と言われるような絵は、相対的価値しかもっていない。
その時代の承認ずみの型、味わい、つまり流行にあてはまって、抵抗がない。

人間みんながもっている存在の奥底の矛盾、どんな俗人の中にもひそんでいる、いやったらしいほどの切実な、その実感にはふれられない。

またそれ故に、新しく打ちひらいていかなければならない。

これからの時代の美を先取りする精神力もないのだ。
だからたとえ感覚的・官能的にはちょっと気持ちよくても、単なる趣味、ムードであるにすぎず、魂をすくい上げる感動にはならない。
だから、見て、通りすぎたとたんに忘れてしまう。

「いいわね」というのは、つまり「どうでもいいわね」というのと同じことだ。

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ちょっと大げさかもしれないが、自分の生き方、そして仕事の中でこういう気持ちを持っていたいのだ。

Lakotaのスタッフが「ECやアパレルに詳しい」だけの人間ならそこに魅力を感じないし、
わかちゃんやトミーがただ「かわいい」や俗に言う「美人」なだけなら来て欲しいと思わない。

けどみんな人間力に溢れ、ヨシダにとって魅力的な人間だからこそ一緒に仕事をしていて楽しい
本質的な美しさをみんな持っているからだ。

ヨシダの好きな山の景色や自然の美しさ、好きな音楽もそういう美しさを持っている。

ここでいう本質的な「美しさ」、「魅力」は、「素朴愚拙」だ。

素(そ)は、飾らない美しさ。
朴(ぼく)は、泥臭さ、朴訥(ぼくとつ)な心。
愚(ぐ)は、理屈ではなく馬鹿になれる子供っぽさ。
拙(せつ)は、ヘタクソの魅力だ。いうなれば人間力。

Lakotaは本質的な魅力がにじみでる「美しいもの」でありたい。
そしてそういう全員の個性、人間力をLakotaのアイテム、写真、ページ、ブログ、
あらゆる形で表現していきたい、そして沢山の人との共感を生みたいと思っている。


では!
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by fbmitu | 2012-06-07 13:16 | 独り言
管理社会とダンスの規制
少し前の話になるが梅田の某クラブで無許可営業の摘発があった。
最近よく聞く『客にダンスをさせた罪』というやつである。
ちなみに中学校ではダンスの必修化が盛り込まれるとのこと。
なかなか多数の意見があり、難しい問題だと思う。

昨日、モンベルの創業者、辰野勇さんの講演を聞いた。
東日本大震災があってからのアウトドア義援隊の話である。
震災があり支援物資を送り、現地に入る。
食べ物、衣類、などの支援物資を届ける。
しかし被災地には他にも必要なものに灯油、ガソリン、軽油、そして現金があった。

それで辰野さんは違法と知りつつドラム缶に灯油などを詰めて運んだそうである。
そして現金。1000万円というお金を用意して封筒で見舞金として被災地の方々に配ったそうです。


その際の二つの出来事、
辰野さんが配っていた際、ある町の代表の人が「すいませんが受け取れません。」と答えた。
思わず何故かと問うと、
「自分達が受け取ったら、別の場所の方から自分たちは受け取ってないの役所に苦情が入る。
最近見舞金を配っている奴がいる。勝手にうけとらないで欲しいと役所から連絡があった。」

そして、ある支援物資の集積所で物資が止まった。役所の担当者に聞くと
「最近物資を受け取ってはそれを他方で売っている人間がいる。だからしっかり素性を確認しないと配れない」
と。

そこで思うのは平時の際と有事の際の考え方というのはまったく変えるべきではないかということ。
津波が後ろから迫ったりしているときに赤信号を守るのかと。

赤十字で膨大な寄付金がずっと止まっていたのは『どうすれば公平か』
という議論だったそうです。
有事の際に公平さ、そしてルールを大切にするあまり、物事の本質=支援はなんの為か?
ということが忘れられている現実があることを知った。

たとえ見舞金が公平に渡らなくても、支援物資を横流しする輩がいても、
目の前に困っている人がいれば1秒でも早く助けるのが支援ではないだろうか?

最低限のルールを守るのは当然として、そこに人として正しい倫理観がある限り、
多少の不公平さ、平時の際のきっちりしたルール(信号や危険物(灯油)の扱い)より、まずは行動ではないだろうか。
そんな事を思った。

日本は今、徹底した管理社会になっている気がする。
なので何事にも許可が無いと動けない。法律が許してくれないと出来ない。
震災では支援をするにも許可がいる。
学校では授業中にトイレに行くにも報告では無く許可がいる。

そして今、音楽に合わせて踊ることにも許可がいる。

クラブという場所で法を犯す悪いことをしている人間も多々いるし
それを黙認しているクラブ側の人間も多々いる。
事実クラブの楽屋でマリファナを吸っている人間を見ることなんてそこまで珍しいことではない。
近隣の方に騒音やゴミで迷惑をかける事もあったはず。

クラブ側にも問題があり、改善すべきところ、襟を正す事はは多々あると思うが
行政側の行き過ぎた管理社会が招くのは倫理に優れた日本では無く、ただシステム化された大衆だけの社会になりつつあるのでは無いかと思う。



では!
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by fbmitu | 2012-04-23 14:10 | 独り言